萩城下町(世界遺産⑤)


◆萩城下町の成り立ち
萩城下町の歴史は、江戸時代の幕開けとともに始まりました。中国地方の覇者であった毛利氏は、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦で徳川家康に敗れます。これにより毛利輝元は、領地を8か国から長門・周防の2か国に減らされ、萩に築城を開始しました。輝元は家督を長男の秀就に譲りますが、秀就がまだ幼かったため、後見として実質的に藩を主導しました。
萩城は三角州の北西に聳える指月山の麓に本丸、そして二ノ丸と三ノ丸が置かれ、海と外堀に囲まれた城内へは、北・中・平安古(ひやこ)の三つの総門が出入口となっていました。三ノ丸には上級武士たちの屋敷がありました。
堀の外側は中・下級武士の屋敷や寺社地、町人地や農民地となりました。三角州特有の地形に応じて、土地が盛り上がった部分に建物が建ち、中央部の低湿地は農地や蓮田が広がり、洪水時の遊水池の役割を担いました。町人地には、主に山口から町人が呼び寄せられ、次第に町割りが形成され、18世紀初頭までに28町に固定されて、現在も町名として残っています。
◆世界遺産に指定された区域
一般に萩城下町というと、三角州内全体の区域とほぼ一致しますが、世界遺産に登録された区域は少し異なります。それは、「明治日本の産業革命」というストーリーに沿い、条件に見合う場所に絞られているためです。このため、関連性の薄い寺社地や農地などは外されています。それでは、指定された区域とその理由について見ていきましょう。
①城跡(指月山を含む本丸)

→藩主毛利家の居城の跡で、藩政の中心として反射炉築造や洋式軍艦建造など、工業化に関する政策の議論の場所であった。また、建造物のすべてが解体されたことで、封建社会の終焉と近代社会の幕開けの象徴となっている。
②旧上級武家地(堀内地区)
→萩藩における工業化や海外の先進技術獲得などの政策を推進した身分の高い武士の屋敷地であった。

③旧町人地(菊屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域)
→城下町及びその周辺で営まれていた商業活動や、小規模な手工業を基盤とした、当時の伝統的経済の姿を示している。
◆よりみち雑話
萩の町には、江戸時代に形成された城下町の町割り(街路)をはじめ、建物や土塀なども多く残されています。これだけの規模で、これほどの状態で残る場所は極めて稀といえるでしょう。次の理由があるといわれていますが、これらが重なり合っていることが非常に興味深いです。
『低湿地が開発された』戦後以降の土地開発が、主に地盤の低い中央部分で行われたため、古い町並みが区画整理で破壊されることがありませんでした。
『夏みかんを栽培していた』夏みかん栽培のために、長屋や土塀が風よけの役割を果たし、むやみに取り壊されませんでした。
『鉄道が町を迂回した』山陰本線の整備の際、その2年前に萩町と合併した周辺三か村に駅を配置することで、三角州内に鉄道が敷かれませんでした。
『空爆を免れた』太平洋戦争の末期、空襲の候補地となるも終戦を迎えたため、木造建築物が消失せずに済みました。
◆世界遺産登録のポイント
萩城下町は、西洋の進んだ工業技術を取り入れようとした武士たちが、限られた情報や知識の中で試行錯誤を重ねた当時の「社会的背景を物語る資産」として評価され、構成資産に加えられました。
幕末の日本では、佐賀藩や薩摩藩など有力な諸藩も工業化に取り組み成果を上げました。しかし、都市開発その他で、当時の社会を映す町の姿を留めているのは、世界遺産を構成する自治体の中において、唯一〝萩〟のみです。
「この世界遺産は萩を見てから各地の構成資産を見るべき」と、ある講演会で聞いてその通りだと思いました。