大板山たたら製鉄遺跡(世界遺産②)

高殿(たかどの)跡から元小屋方向(奥)を見る。

◆当時の時代背景など

 江戸時代、鉄は刃物や農具などはもとより、刀剣類などに使われていました。たたら製鉄とは、砂鉄を溶かして鉄の塊を作る日本古来の製鉄技術であり、出雲や石見(現島根県)など、中国地方は屈指の鉄生産地だったそうです。今でも各地にたたら場の跡が残っています。

 やがて幕末から明治時代にかけて、製鉄技術も近代化が図られ、西洋で開発された高炉が導入されるようになると、たたら製鉄は次第に姿を消していきました。

※たたら製鉄って?→鉄の原料である砂鉄と燃料の木炭を炉に入れ、足踏み式の大型鞴(ふいご)で風を送り、高温にした炉内で砂鉄を溶かし、鉄を生産する方法です。

◆大板山操業の歴史

 大板山では三回の操業が伝えられています。

・第一回操業 宝暦年間 (一七五一~一七六四)

・第二回操業 文化文政年間 (一八一二~一八二二)

・第三回操業 幕末期 (一八五五~一八六七)

 中世から江戸初期までのたたら製鉄は、主に野外での短期的な操業が多かったのに対し、この頃には恒久的な製鉄炉を持ち、同じ場所で継続的に操業する「永代たたら」による製鉄が行われました。

◆よりみち雑話

 第三回操業期の経営者は、現在の島根県江津市から来た高原竹五郎でした。安政二年(一八五五)から一二年後に亡くなるまでいたそうです。さて、たたら製鉄遺跡の手前の集落に西見山八幡宮があります。ここに高原竹五郎が寄進した石段があるというので訪ねてみました。集落の人々とも交流があり、世話になることへのお礼の思いが込められているのでしょう。

石段左下の標柱に注目すると「願主 高原竹五郎」と刻まれている。

◆遺構のみどころ

 たたら場全体を見渡せる場所に、事務所としての機能を有していた「元小屋」がありました。石積があり礎石が並んでいます。また、小さな池と庭園が復元されています。

 たたらの中心施設は製鉄炉のある「高殿」です。建物の中央に製鉄炉と鞴(ふいご)が置かれ、周囲に材料置き場や休憩所がありました。外には砂鉄に混ざっている不純物を取り除く「砂鉄洗い場」や、熱い鉄の塊を冷却するための「鉄池(かないけ)」などの遺構も確認できます。ガイドの説明を聞きながら、空想するのも楽しいものです。

 また、遺跡に隣接して、たたら職人とその家族の墓があります。すぐ下流に山の口ダムが作られ、水没してしまうことから、現在の位置に改葬されました。そっと手を合わせてほしい場所です。

手前が元小屋跡、屋根があるのが砂鉄洗い場で、奥の広場が鞴(ふいご)の置かれた高殿(たかどの)。

 なお、発掘調査で確認された遺構は第三回操業期のものが主で、第二回操業期と重なる部分もあるそうです。しかし、「大鍛治(おおかじ)」という脱炭精錬をして錬鉄や鋼にする施設のあった場所は未確認ということです。また、未発掘の場所には、第一回操業期の遺構があるともいわれており、いずれ調査が行われることが期待されます。

 ところで、なぜこんな山の中にあるのでしょう?→山中にあるのは、燃料供給のための豊かな森林と、作業に必要な水が確保できる場所が選ばれたからです。そして、操業期間に間隔があるのは、森林資源の回復に要する時間がかかるからです。なるほどなあと思いますね!

◆世界遺産登録のポイント

 大板山たたらで生産された鉄は、恵美須ヶ鼻造船所(世界遺産)で建造された「丙辰(へいしん)丸」の、船釘や碇の原料となりました。冒頭に記載したように、中国地方には近世のたたら場が数多くありますが、その中で幕末期に洋式軍艦建造に必要な鉄を供給したことが裏づけられる唯一の事例というのが注目すべき点です。 つまり、構成資産として認められるにあたり、恵美須ヶ鼻造船所跡との関連性が重要な決め手となったわけです。

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