萩の夏みかんについて


「夏みかんと土塀」という景色を気に入って、旅行に来れば必ずその景観を写真に収めてきました。それは萩に越してからも変わらず、折に触れて目を楽しませてもらっています。今回は、萩博物館で開催の企画展「萩の夏みかん物語り」の展示から、その魅力に迫っていくことにしました。
まず、夏みかんの学名は、シトラス・ナツダイダイ・ハヤタ(Citrus Natsudaidai Hayata)といいます。これは、1919年に早田文蔵博士が新種として発表したことに由来する名称なのですね。
ということは、日本原産種という扱いになるわけですが、このストーリーが面白いです。夏みかんの原樹は、山口県長門市大日比の西本家にあります。江戸時代中期の18世紀に、近くの海岸に流れ着いた見たことのないミカンの種子をまいて育てたものといわれています。それはアジアのどこかが原産ということになりそうですが、はっきりしないために日本の名称が学名になったのです。なんだか不思議ですね。ちなみにこの夏みかん原樹は、昭和2年4月8日に国指定史跡及び天然記念物に指定されています。

明治時代の初期、萩藩の士族たちは生活に困窮していました。それは、江戸時代末の藩庁の山口移転に続き、明治維新・廃藩置県によって、萩は政治・経済の中心ではなくなってしまい、藩の重臣たちはこの地を離れ、また萩に残った士族たちは禄を失い日々の生活に困窮することになったからなのです。
こうした状況を見かねて、明治9年(1876)、長州藩の役人小幡高政が、生活に困っている士族救済のために「耐久社」という団体を設立し、夏みかんの苗木を大量に生産し栽培を推奨します。彼は、もともと武家屋敷地にも植えられていて、あまり手をかけなくても実る夏みかんを、主の居なくなった広い武家屋敷地に植えて、大々的に栽培しようと試みたのでした。
全国で初めて、夏みかん栽培に取り組んだ小幡高政(文化14(1817)~明治39(1906))は、「夏みかん栽培の父」といわれます。彼は、周囲の冷ややかなまなざしを感じながらも、自らも率先して邸宅(現在の田中義一別邸)周りの屋敷地(現在のかんきつ公園)にも夏みかんを植えていきました。
栽培から10年程たった頃には、旧萩城下の空き地のほとんどに夏みかんが植えられ、出荷量も相当なものとなりました。また、夏みかんはとても高値で取引され、夏みかん5個で米1升分の価格であったそうです。なんと、明治30~40年代(今から100~110年前)には、当時の萩町の年間予算の8倍もの生産額を誇っていました。

ところが、夏みかん栽培は1970年頃を境に衰退していきます。その頃までは、萩の夏みかんは鉄道を使って遠くは北海道や東北まで全国各地へ出荷されていましたが、ミカンの仲間が出回るようになって、次第に生産が減っていくこととなったのです。
しかし、夏みかん畑は、それまでの間、夏みかんが高値で取引され続けたことで、風から守るための土塀や長屋などとともに維持されてきました。このため、武家屋敷地の区画も大きく変わることがなく、「江戸時代の地図が使えるまち」、「土塀と夏みかんのまち」という景観の維持形成に大きな役割を果たしたといえます。
萩の経済を支え、景観を形成してきた功績を知ると、「夏みかんといえば萩」というよりは「夏みかんあっての萩」と述べるべきかとも思えてきました。