松下村塾(世界遺産④)

松陰神社境内にある松下村塾。

◆当時の時代背景など

 松下村塾の三代目の主宰者である吉田松陰は、もともと萩藩の藩校明倫館の「山鹿流兵学者」でした。このため、日本の海防強化への関心も高く、海外の事情や知識を積極的に吸収するため、書物を読むことはもちろん、国内各地に遊学して人々からも情報を得ていきました。

 松陰は、安政元年(1854)3月に、ペリーの黒船に乗り込みましたが、密航は失敗に終わります。鎖国という条件下では、欧米列強の技術力について、海外渡航をして学ぶことができません。このため、松陰は理論と実技を兼ね備えた工学教育施設の開設を説くようになります。

 やがて、松陰の思想は門下生を中心に引き継がれ、文久3年(1863)の、イギリスへ5人の密航留学が実現することになります。

◆松下村塾の沿革

 松下村塾は、松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842)に創始した私塾で、やがて塾名は久保五郎左衛門に引き継がれました。松陰は久保から塾名を継ぎ、三代目の主宰者となります。

 松陰は、伊豆下田沖に来航したペリーの黒船での密航に失敗して、萩に送り返されます。そして、野山獄に投じられた後、実家の杉家に幽閉されました。その幽囚室で講義をしたのが、松陰による塾の始まりです。安政3年(1856)3月のことでした。その後、敷地内の小屋を改修して塾舎とし、手狭になると門人らの共同作業で部屋を増築しました。これらが、現存する松下村塾です。

 塾は安政6年(1859)10月に、松陰が江戸で処刑された以後は、楫取素彦(小田村伊之助)や久坂玄瑞らによって断続的に継承されますが、明治25年(1892)頃に閉鎖されました。

◆世界遺産登録のポイント

◆世界遺産登録のポイント

 松下村塾には「明治日本の産業革命遺産」の他の構成資産と異なり、工場的な要素がありません。また、松陰の教育により、維新の志士や明治新政府の政治家が輩出されたというイメージが強いこともあり、構成資産に含まれていることに、どことなく違和感を持つかもしれません。

 しかし、見かたを変えてみると、塾生には産業・経済の分野で活躍した人物も多いことが分かります。松下村塾は『欧米列強に対抗すべく、幕末の日本でいち早く工学教育の必要を提唱し、人材育成の面で工業化に貢献したことを示す事例』としてその価値が評価されています。松陰の思想の先見性と影響力を、あらためて見つめ直す切り口となったともいえるでしょう。

◆松陰の工学教育論とは?

吉田松陰誕生地の像、右は金子重輔。

安政五年(一八五八)に著した「学校を論ず、付けたり作場」という論文より。

『一に学校を盛んにすること。…身分の高低や学問の深浅を問わず、諸種の学芸に優れた者を募り学生とし、学びたいものを学ばせたうえで、品性と才能を見極め、実力のある者を登用・昇進させるようにしよう!』

『二に作業場を興すこと。…作業場を学校に併設し、技能を持つ者全員が才能を発揮できるよう従事させ、人々の知恵を集めて工夫し、船艦・機械について研究させれば、必ず作る完成するはず!』

◆よりみち雑話

松下村塾のある松陰神社の境内を散策してみましょう。

親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん(家族宛辞世歌)

○松陰神社本殿…松陰を祭神として明治40年(1907)に創建。現社殿は昭和30年(1955)に竣功。

○松門神社…旧社殿を本殿の隣に移築し、松陰の塾生・門下生が祀られている。

○吉田松陰幽囚ノ旧宅…野山獄への投獄後、松陰が謹慎生活をした実家、杉家の旧宅。幽囚室がある。

○学びの道…松陰が遺した言葉を記したポール仕立ての25基の句碑が参道に並ぶ。

○宝物殿至誠館…松陰の遺品・遺墨を保存・展示している。

○吉田松陰歴史館…松陰の生涯20場面を、ろう人形で再現展示。

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