萩反射炉(世界遺産③)

建物の柱が確認された位置にタマツゲが植栽されている。

◆当時の時代背景など

 天保13年(1842)、アヘン戦争で清(中国)がイギリスに敗れると、海防強化の必要性が唱えられるようになります。さらに伝統的な和式大砲では到底勝ち目はなく、かつそれまで主流だった青銅製から、鉄製大砲への転換が図られるようになります。

 鉄製大砲を鋳造するためには、砲弾の発射に耐えうる強い鉄が不可欠です。これには、硬くてもろい鉄を粘り気のある鉄に変える溶解炉、つまり反射炉の建造が必要であるということになりました。

 こうした中、佐賀藩は日本で最初に反射炉の建設に挑戦し実用化に成功しました。また、薩摩藩や伊豆韮山代官所など、各地で反射炉の導入が試みられました。しかし、知識も技術も乏しかったため、大半は試行錯誤の段階で終わってしまったようです。

◆萩反射炉の概要

安政3年(1856)築造、高さ 約10.5m

 一般的な反射炉の構造は炉と煙突に分けられ、ここには煙突にあたる部分が現存しています。材質は安山岩で、上方の一部は煉瓦積みです。二股に分かれているように見えますが、それぞれ独立した二本の煙突なのだそうです。

 反射炉は、原料鉄に含まれる炭素を空気中の酸素と結合させて排出することで、炭素含有量を減らし、軟らかく粘りのある鉄にする装置です。

※当時の先進地は佐賀藩や薩摩藩。この反射炉は、佐賀藩を視察した際、見学を許された反射炉の見取り図を作成し、いわば見様見真似で築造したものです。そのため、実用には至りませんでした。

◆世界遺産登録のポイント

 萩藩は反射炉の築造を目指し、視察をし、試作を行い、担当の役職を任命するなど準備を進めました。しかし、反射炉の試作後まもなく、技術面及び費用面に限界があると判断し、本式の反射炉の築造を断念してしまいました。とはいえ、現存する反射炉は、自力で西洋技術を取り入れようと試行錯誤していた様子をものがたり、それを裏付ける文献と照らし合わせることによって、より具体的に当時の様子をうかがい知ることができるものです。  なお、反射炉の遺構は、萩のほかには韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるのみの大変貴重な遺産で、いずれも世界遺産の構成資産として登録されています。

◆よりみち雑話

 松陰神社の近くにある郡司鋳造所遺構広場。ここには、萩藩お抱えの鋳物師(いもじ)であった郡司家の鋳物工房の様子が、発掘調査を経て移築復元されています。

 萩藩では、郡司家に対し洋式大砲の鋳造を命じ、1m前後の小規模な洋式大砲を鋳造させ、ペリー来航後には3mを超えるカノン砲の鋳造を命じました。ここは、郡司右平次(喜平治)が、在来技術を駆使してカノン砲の鋳造に取り組んだことを伝える国内唯一の石組大砲鋳造遺構です。

 しかし、郡司家が鋳造した大砲はいずれも青銅製でした。時代は、より強力な鉄製大砲製造へと移行してゆき、鉄の熔解炉(反射炉)が必要となってくるのです。

青銅製大砲の鋳造の様子を知ることができる公園。

◇約50年の物語

 明治日本の産業革命遺産の特徴は、複数の資産を一つのストーリーに沿ってまとめることにより、登録にふさわしい価値を見出す「シリアルノミネーション」という手法を用いたところにあります。

 日本が19世紀半ばからの約50年という短期間で、製鉄・製鋼、造船、石炭産業を基盤に急速な産業化を達成した物語に関する構成資産の集合体という訳です。萩の資産は、八章からなる物語の第一章部分。他の章と比較する面白みがあると思いませんか。(第二章以降は順に、鹿児島・韮山・釜石・佐賀・長崎・三池・八幡)

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