山陰本線と萩のまち・ひと


鉄道の歴史を紹介する企画展『萩の鉄道物語り』を萩博物館で見学しました。
萩の三角州を囲むように伸びる山陰本線の鉄路。大正14年(1925)4月3日に萩~長門三隅間が開通し、玉江駅と萩駅が開業、同年11月1日に東萩駅が開業しました。遡ること2年前の大正12年(1923)4月1日、三角州内の萩町を中心に、川の外側に隣接する椿東村、椿村、山田村が合併し、新しい萩町が誕生しています。鉄道は萩町の中心部を貫くことなく、旧山田村の玉江駅、旧椿村の萩駅、旧椿東村の東萩駅を通過…つまり城下町を迂回するルートに敷設されたのです。結果として、現在でも江戸時代の地図が使えるまちが残ったといえます。この見事な采配の主の意図がどこまで及んでいたのかはともかく、貴重な歴史遺産が今なお生きている事実は見事です。
さて、鉄道が開通したことにより、どこに行くにも峠を越さなければならなかった萩の住民にとっては、多少大げさですが外の世界との道が開かれました。生活面では、新鮮な食品が山間部などに届けられるようになりました。保冷のための氷と一緒に海産物を入れた箱を担いだ“カンカン部隊”と呼ばれる人々が、車両に乗り込んで各地に売りに出ていたという話を伺いました。また現在も鉄道は通勤通学などに利用されています。小さな駅の駐輪場に大量の自転車が止められているのを見ると、特に高校生にとって重要な交通手段であることが理解できます。

経済の面では、昭和45年(1970)の大阪万博を契機に旅行ブームが到来します。国鉄のディスカバージャパンの取り組みは、それまで団体が中心だった旅のスタイルを個人旅行へ転換していこうというもので、女性誌などでも全国の魅力的な街が紹介されるようになりました。萩にも京都と博多を結ぶ特急が停車するなど、多くの旅行者が訪れるようになりました。
しかし、特急や急行が運行していたのも今は昔、時おりトワイライトエクスプレス瑞風など観光列車が立ち寄ることもありますが、普段目にする列車は一両または二両の編成です。新幹線が停車する新山口駅からは、バスに乗り換えて移動するのが最も効率の良い方法であり、おそらく今後も変わることはないでしょう。この先、『萩の鉄道物語り』が現実のものとして続いていくためには、鉄道の必要性と利用とが伴わなければなりません。風光明媚な海岸線の車窓風景を眺めながら私なりに考えてみたいと、本企画展を見て思うようになりました。

ところで、企画展では日本の鉄道史を語る上で欠くことのできない人物が萩出身であることにもスポットが当てられていましたのでほんの少し紹介しておきます。
【日本の鉄道の父・井上 勝】(天保14年(1843)~明治43年(1910)・68歳)
萩藩士の三男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、国内各地に遊学します。文久3年(1863)には、国禁の海外渡航禁止令を破り密かにイギリスに渡りました。帰国後、政府に登用され、明治5年9月新橋~横浜間に日本最初の鉄道を開通させたほか、明治22年には新橋~神戸間の東海道線を全通させました。この間、西洋に頼っていた技術者や資材からの脱却を目指し、工技生養成所を開設して技術者の養成と実践を積み重ねる場を作り上げました。
【日本の時刻表の父・手塚猛昌】(嘉永6年(1853)~昭和7年(1932)・79歳)
萩藩永代家老益田家の家臣・岡部家の次男として阿武郡須佐村に生まれ、19歳の時に神官を務める手塚家の養子となり神官となりましたが、学ぶ意欲を抑えきれず33歳で上京し、慶應義塾唯一の老書生となります。明治27年(1894)、イギリスの時刻表を手本に、日本で初めての本格的な月刊時刻表「汽車汽船旅行案内」を刊行します。これは旅行の便を図るために、全国の鉄道や航路の時刻表を集め名所案内なども載せた画期的なもので、現在の時刻表の元となりました。