萩往還を歩く①

萩往還は随所に設置されている青い方向標識のおかげで、地図等がなくても安心して歩けます。また、ところどころに建つ石のモニュメントが、景観に彩りを添えています。

◆萩往還へのあこがれ

 萩往還(おうかん)は、江戸時代に萩城下から中国山地を越え、山口を通過して三田尻港(現防府市)まで続く街道として整備されました。毛利の殿様が参勤交代に使ったため「御成道」ともいわれ、商人や農民、維新の志士たちも往来しました。総延長は約53㎞あり、石畳や峠道などが昔のままに残る場所もあります。

 森林の中を歩くこと、史跡を訪ねること、そして萩が好きな私にとって、宝物のような歴史の道『萩往還』です。興味を抱き続け、ついに念願の一歩を踏み出すその日がやってきたのです。

◆佐々並市(ささなみいち)について

 今回は、佐々並市を出発して、明木市(あきらぎいち)を通り唐樋札場跡(からひふだばあと)までを歩くことにしました。峠越えはあるものの全体的には山から海に向かって下る約19㎞の道のりです。…その前に、出発地の佐々並市について学ぶために、一週間前に事前研修(散策)しておいたので、一文添えておきます。

 佐々並という地名は平安後期には存在していたそうで、農耕や炭焼きなどがなされていたようです。江戸時代に入り萩往還が整備されると、藩主が休憩する御茶屋が設けられ、宿場へ変遷しました。

萩往還おもてなし茶屋(旧小林家住宅)からの景観。

 江戸や明治期に建てられた町家も多く残り、赤い石州瓦も印象的で、重要伝統的建築物群保存地区の指定を受けています。今は商売をやめたり空き家となったりした家も多いそうですが、落ち着きのある雰囲気が漂う集落です。

◆佐々並市~明木市

 午前九時前に道の駅あさひバス停に降り立ち歩き始めました。ありがたいことに、数年前に萩から山口まで二日間で歩いた経験のある友人が同行してくれました。心強いし楽しさも共有できました。

 佐々並市の集落を通り抜けると、さっそく山中に向かって道が伸びています。いきなり石畳の道となり、気分が一気に盛り上がります。この先の坂道に沿って、石を積み上げて作られた棚田の跡が見られます。当時の農作業風景が思い浮かぶようでした。

 峠を越えて下っていくと落合という集落に入り、沢越えの石橋を渡ります。短い石造りの刎橋(はねばし)ですが、石組みの両岸に斜めに刺さっている柱状の石材が支えとなり、その上に板石が乗る構造です。山口県特有の型式で、国の登録有形文化財に指定されています。

落合の石橋(江戸時代)長さ2.4m、幅1.7m。

 この先しばらくは、国道262号と重なる部分もあり、普段の我が身を忘れエンジン音と排気臭に嫌悪感を抱きながら歩きました。

 釿切(ちょうのぎり)の集落を過ぎると、人家や車道のない一升谷(いっしょうだに)へと入っていきます。一升谷は、今回の区間の最難所となる約3㎞の長い坂道です。ただし、萩を起点とした場合は上り、佐々並市を起点とした場合は下りとなります。(→私たちは下り)

 名前の由来は、長く急なこの坂道にとりかかって炒り豆を食べ始めると、登りきるまでに一升なくなってしまうことからなのだとか。ここは急勾配であるため、雨水によって地面が荒れるのを防ぐためと思われる石畳が敷かれています。幅約一mの石畳と、道の脇には側溝も整備されていました。先人たちの苦労の結晶を踏みしめていることに感慨を覚えずにはいられません。

一升谷の石畳にて。萩にゃんと記念写真。

 現在は杉林ですが、当時はどんな木々が茂りどんな雰囲気だったのでしょう。十合目からカウントダウンで下っていきます。やがて道は細い沢に沿い、水の調べが心地よいものでした。そして景色が開けた時、ちょうど正午を知らせる防災無線が鳴り響きました。明木市に到着、ここまで約9㎞です。

◆明木市について

 明木市は、萩往還と萩から下関に通じる赤間関街道の宿駅として栄えました。交通の要衝であるとともに、萩城下に供給する薪炭や農産物などの生産も盛んな地域でした。休憩所として「乳母の茶屋」を利用します。殿様が休憩した御客屋のあった場所で、交流施設となっています。

☆ひと休み☆ 明木の恩人のお話。萩城の石垣組みに抜群の力を発揮した彦六と又十郎の二人は、殿様から特別の褒美を受けることになりましたが、私欲に走らず明木の里人が支払う「口屋銭」(税金)の免除を願い出たそうです。

彦六さん(左)と又十郎さん(右)

◆明木市~唐樋札場跡

 乳母の茶屋を出発して間もなく、明木橋を渡ります。藩政時代と橋の位置は異なるそうですが、松陰先生が伊豆の下田で密航に失敗し、捕らわれの身となって萩へ護送された際に、このあたりで詩を詠んでいることは有名です。少し離れたところに詩碑も建てられていました。

少年有所志 題柱学馬郷 今日檻輿返 是吾晝錦行 (中国の故事をまねて、少年の頃に志を書いたことがある。今日は檻に入れられて返されるが、故郷に錦を飾る思いである。)

明木川にかかる明木橋

 川沿いをしばらく歩いた後、上り坂が始まります。そして県道を越え旧道を越え、悴坂(かせがざか)駕籠建場跡に辿り着きました。萩を出て最初の上りを終えたところとなり、殿様一行の休憩所です。向かいには庶民が休憩するための茶屋もありました。

 坂を下り始めると程なく道の駅萩往還に出ます。悴坂も今やトンネルが貫通して自動車で通過できます。茶屋に代わって道の駅とは!…せっかくなので夏みかんソフトを食べてひと休みしました。

松陰先生の歌が刻まれた涙松の碑「帰らじと思ひ定めし旅なれば一入ぬるる涙松かな」

 「もうすぐ涙松ですよ。いよいよ御城下が見えますね。」と思わず友人に言葉を発しました。この地は萩の町並みが見える境目にあたり、旅人が萩から出る場合は別れの涙、帰るときは嬉し涙を流したといわれています。

 土の上や石畳を歩くことの多かった一日も、最後はアスファルトの道となります。萩駅の前を通過し、橋本橋を渡るといよいよ三角州に入りました。そして、萩往還の起点である唐樋札場跡に到着しました。ここには幕府や藩からのお触れが掲げられた高札が復元されています。

田町商店街のアーケード入口脇。ここが萩往還の起点。

 到着時刻は午後3時30分。明木市からさらに約9㎞歩いてきました。佐々並市を出発し、昼食と休憩を含んで6時間半ほどです。バスでは約40分と思うと、歩く速さとの違いがよく分かります。

 しかし、二足歩行の人間には、本来この日のような時間が流れており、現代社会がいかにせわしいかを考えさせられます。ただし、それが良いとも悪いとも言えないのが現実。時折こういう体験をするのは良いことですね。

(歩行日 2020年11月21日)

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